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○経津主大神(ふつぬしのおおかみ) |
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○武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ) |
○岐大神(いきおおかみ) |
「日本書記」によれば、はるか昔、天照大神が日本の国を治めようとしましたが、荒ぶる神々が争いをやめず非常に乱れていました。そこで八百万神は話し合いを重ねた結果、経津主大神を派遣する事にしました。経津主大神は武甕槌大神と共に出雲国に降臨し、大国主神と国譲りの交渉をした結果、円満に国譲りを実現いたしました。更に、国内を巡行し、荒ぶる神々を平定して日本建国の基礎を築き、ことに東国の開拓と民生の安定に多大な功績を示したとされています。
以上の物語を「日本書記」・「古事記」では、葦原中国平定、または国譲りと言います。
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当香取神社が亀有の地に御鎮守されたのが鎌倉時代建治二年八月十九日(西暦一二七六年)。当時は下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取大神宮の神領地であった関係から御分霊(経津主大神)をお迎えし村の鎮守様とされていました。その後鹿島(武甕槌大神)・鳥柄(岐大神)の両大神を合わせおまつりし三社明神のお社として村人・近隣の人々を守り続け、約七百三十年の時を経て現在に至り、武神(闘いの神)であるところから、現在では「何ごとにも打ち勝つ」という勝負・開運厄除けの神様として広く篤く崇敬されています。 |
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旧亀有村は、「亀無」「亀梨」と呼ばれていました。当時葛西御厨(神領の一種)の範囲と所領高を明記した応永5年(1398)の「下総国葛西御厨注文」や、北條氏や家臣に諸役を賦課するために各人の役高を記した永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」にはいずれも「亀無」「亀梨」の記載がみられます。「亀有」となった由来は定かではありませんが、「なし」の意味を嫌ったものだと思われます。正保元年(1644)江戸幕府による「正保改定図」から「亀有」としたようです。
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万延元年(1860)建立の旧社殿の棟瓦として両端に置かれていた亀形瓦は阿吽一対で、向かって右側の「阿形」の亀は首を左に、左側の「吽形」の亀は首を右に曲げ、いずれも正面を向くようになっています。
製作年代や作者は伝承がなく無銘のため明らかではありませんが、「亀有」という地名に因んだ亀を象った瓦は珍しいとして注目されています。
現在は葛飾区郷土と天文の博物館に寄宅されています。
博物館の2F「郷土のフロア」に実物が展示してあります。
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